夏季特別展示 パリの出逢い―藤田嗣治とヴァシル・ストイロフ

藤田の肖像画から二人の交流を紹介します

        
  
ヴァシル・ストイロフ作 「藤田嗣治像」

  
開催期間: 6月10日(金)~7月18日(月祝) 
開館時間: 開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
     ※最終日は午後3時終了
休館日 :毎週水曜日
観覧料: 観覧料:一般500円(高校生以下無料)
    ※500円ですべての展覧会がご覧になれます

ブルガリアを代表する画家であるヴァシル・ストイロフ(1904−90)は留学したパリで藤田嗣治(1886−1968)と出逢い、二人は友情を深めました。当時、藤田は「乳白色の肌」と評された裸婦像を発表し、エコール・ド・パリの寵児となっていました。18歳年下のストイロフにとって、異国の地で活躍する藤田は、憧れの画家だったのではないでしょうか。1929年の素描「藤田嗣治像」には「嗣治 Foujita」のサインがあり、二人の交流の証ともなっています。

今回は、藤田が詩集『エロスの愉しみ』のために描いた挿画(1927年)と、ストイロフの素描「藤田嗣治像」(1929年)を並べて展示いたします。当時のパリの雰囲気を感じさせる優美な藤田の小品と、ストイロフの繊細な素描をとおして、二人の交流を紹介することができればと思います。

 

藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)

1886年(明治19)生まれ。1913年(26歳)フランスに渡り、パリのモンパルナスに住み、ピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの画家たちと交流。1919年にはサロン・ドートンヌに出品した6点の油絵がすべて入選し、会員に推挙される。その裸婦像は「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛され、大変な人気を博した。

1929年(昭和4)、凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国、1933年以降は日本を活動の拠点とした。戦争中に戦争画を制作し、戦後、画壇から戦争協力者として批判を浴び、その責任をとる形で日本を離れた。

フランスにもどった藤田は、1955年にフランス国籍を取得。1959年、72歳のときにランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を授けられる。最晩年には、礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」を建設。完成から2年後の1968年(昭和43)に没した。

 

ヴァシル・ストイロフ(1904-1990)

1904年、ブルガリアのソフィアに生まれる。父親と祖父は司祭で、若いときから、ブルガリアの古いイコンとフレスコから表現法を学び、のちに独自の水彩画技法を生み出す。

1928年から32年までパリに留学し、ヴラマンクやイブ・ブレイエなど芸術家と交流。藤田嗣治とも親交があり、日本の水彩画技法を教わったという。その後、1929年からサロン・ドートンヌなどに出品。1930年には個展を開き、批評家から絶賛された。

帰国後は、さらに活動の舞台を広げ、優れた農村婦人画、田園風景と史的題材の大作、肖像画や風景画などを描き、ブルガリア国内はもとより、パリ、ウィーン、ローマ、ミュンヘン、モスクワ、ブタペストなどでも展覧会が開かれた。

1942年にはヴェネツィア・ビエンナーレが大作「収穫」を購入。これは、ブルガリアの画家にとって、かつてない名誉だった。ストイロフの作品の根底には、ブルガリアの歴史や風土、民族にたいする愛情と尊敬が流れている。